小説【海賊とよばれた男】実在モデルの主人公、出光佐三の生き方
百田尚樹さんが『第10回本屋大賞』を受賞した小説、『海賊とよばれた男』の主人公、国岡鐡造には実在モデルがいます。
出光興産の創立者、出光佐三さんをモデルとして書かれた小説です。
『出光』といえば、ガソリンスタンドで有名ですよね。
その出光佐三さんについて今回は、紹介していきたいと思います!
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出光佐三の簡単なプロフィール!
画像引用元:http://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/45270897.html
出光佐三 (いでみつ さぞう)
1885年(明治18年)8月22日生まれ。
満95歳没。
父・・・出光藤六
母・・・出光千代
出光佐三は、6男2女の次男。
出光佐三さんは、福岡県宗像郡赤間村で生まれました。
幼い頃から虚弱で、特に目が悪かったそうです。
高校生までは福岡で生活をされていましたが、大学は神戸高等商業学校へ入学されました。(現在の神戸大学)
大学を卒業後は、大学のある神戸で小麦と石油、機械油を扱う酒井商店に丁稚(でっち)として入店しました。
ここまでは出光佐三さんの考えの元、順調に日々過ぎていたんでしょうね。
しばらくすると、実家で暮らす家族に異変が起こります。
父親の仕事(染料を仕入れて売り歩く藍問屋)がうまくいかなくなり、更に親類の債権保証等で、一家は離れ離れになるといった事が起こりました。
仕送りがもらえなくなった出光佐三さんは、家庭教師のアルバイトを始めます。
そのアルバイトが、出光佐三さんの人生を変えるとは思ってもみなかったでしょうね。
人生を変える出来事というのは、ある人物に出会った事です。
それは、出光佐三さんの人生に無くてはならない人物なんです。
出光佐三の人生に無くてはならない人物
画像引用元:http://awaji-gurashi.seesaa.net/article/385689174.html
出光佐三さんがアルバイトをしていた子供の父親で、日田重太郎さんという大変な資産家の方がいました。
この日田重太郎さんという人物が生涯に渡って、出光佐三さんを支える人物となるのです。
出光佐三さんは家族の事もあり、独立して商売を始め、家族を助けていきたいと思っていました。
そんな出光佐三さんの気持ちを、いち早く察知していたのが日田重太郎さんです。
神社仏閣を巡拝するのが趣味の日田重太郎さんは、宗像神社を無条件に尊崇する出光佐三さんにすっかり惚れ込んでいたと言います。
ある日、日田重太郎さんから『君は独立したいと思っているんだろう。そして、その資金に困っているのではないか?』
出光佐三さんはビックリします。
驚く出光佐三さんに、日田重太郎さんは続けます。
『京都にある家が売れたんでね。そのうち6千円程、君にあげようと思っているんだ。』
6千円といえば、現在の価値にすると・・・・
(価値なので大体ですが)7千万や8千万円位になる様です。
更に驚く出光佐三さんに、日田重太郎さんは条件を付けます。
◎ この金は、君にあげると決めたのだから、返す必要はないという事。
◎ 自分は事業が解らないし報告もいらないが、初志を貫いて終始一貫する事。
◎ これから独立する店の従業員も全て家族の一員として仲良くやっていく事。
◎ この事は誰にも言わない事。
出光佐三さんは、迷いに迷ったと言います。
そして、士魂商才の商人になる事が日田重太郎さんへの恩返しになると思い、ありがたく受け取る決意をしました。
そして出光佐三さんは、出光商会を設立。
出光佐三さん、26歳の時でした。
出光商会の苦難
出光佐三さんは、九州の門司に移って石油販売業を始めました。
機械油の販売から始めましたが、需要は減退していく一方で、更に、出光佐三さんらしい販売の仕方も資金が底をつく原因になったのかもしれません。
出光佐三さんの信念が『士魂商才』。
袖の下(内緒の贈答品)を要求する商売の相手はたくさんいる中、出光佐三さんは、信念に基づいた販売を徹底していき、そういった相手には『突っぱねる』といった事をしていました。
そうしているうち、日田重太郎さんからもらった資金は3年で底をついてしまいます。
意気消沈した出光佐三さんは、廃業する事を日田重太郎さんに報告に行く事にしたんです。
それを聞いた日田重太郎さんは、
『3年で駄目なら5年。5年で駄目なら10年。と何故頑張らないのだ?』
『まだ神戸の家が残っている。それを売れば当面の資金になるだろう』
『絶対に諦めるな。もし失敗してすべてを失えば、一緒に乞食をしようじゃないか』
等と言い、出光佐三さんを励ましたそうです。
その言葉を聞いた出光佐三さんは、日田重太郎さんに家を売らせる訳にはいかないと思い、事業を続けていく決心をしました。
その後、まず行動した事は、漁民や運搬業者に対して機械船の燃料油を売り込む事でした。
これまで高価な灯油を使っていた彼らに対して、安い軽油で充分事足りるといった内容を熱心に伝え続けました。
そうする事により彼らは、原価が安くつき、利益を増大させる事が出来る様になったのです。
そして出光商会は、下関と門司一帯の漁船や運搬船のほとんどを支配下に置く事が出来たのでした。
1913年に出光佐三さんは、中国の満州に車輌油を売り込みに行く事を決意しました。
しかし当時、満州は外油の独占場だったので国産油が入る余地はありません。
独占と癒着はつきもの。
そのからくりを崩す為には、国産油の品質の良さをデータや実験で証明する事でした。
その高品質の国産油を使う事によって、更なる国益につながる事を理解してもらう為、出光佐三さんは何度も証明してみせたのです。
そうして信用を勝ち取る事に成功し、朝鮮、台湾等にも進出し、従業員も1000名以上になり、大会社に成長したのでした。
その後、出光興産を設立しました。
しかし、太平洋戦争に日本が負けてしまった為、海外に多く拠点を置いていた出光興産は倒産寸前まで追い込まれる事になるのです。
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苦難乗り越え
敗戦の2日後に出光佐三さんは、社員を集め、『愚痴は止めよ』『この国は必ずや再び立ち上がる日が来る』『直ちに建設にかかれ』と力強く言い放ったのです。
全てを失った出光興産でしたが、出光佐三さんは驚く事に海外から引き上げてきた800名以上の従業員全員をクビを切らず受け入れる。と言い、仕事も無い、資産も無い、借金だらけでも日田重太郎さんの言葉を思い出し、『もし出光興産が潰れる様な事があれば、社員と一緒に乞食になる。』とまで言ったそうです。
そして従業員の給料を支払う為、自分の物も、売れる物は全部売り、出来る仕事は手当たり次第に引き受ける事にしました。
なかなか思う様には上手くいかないまま時は過ぎていましたが、ある時、石油事業に復帰するキッカケとなる仕事が舞い込んだのでした。
それは、GHQ(占領軍本部)が出した司令で、『旧海軍のタンクの底に油が残っているので、これを処理して活用出来ないか?』といった内容。
その仕事というのは、とても危険で大変な仕事である事を承知の上でも従業員達は、誰1人悲痛な思いを持った者はおらず、希望に満ちていたと言います。
『タンクの底さらえ』という仕事は、かなりの悪臭の中、油まみれになり、手足がただれる事もある作業。
その仕事を1年半で、廃油2万キロリットルの汲み取りに成功したのです。
この仕事ぶりは、GHQにも強く印象に残る事となり、『タンク底にかえれ』は、出光興産の合言葉となりました。
恩人、日田重太郎との別れ
1953年に有名な『日章丸事件』を出光佐三さんは、引き起こす事となります。
この事件で、イランの石油を輸入する事に成功するのです。
この事から出光興産は、日本一の規模を誇る精油所を建設し、『世界の出光』となっていったのです。
精油所建設の竣工式に日田重太郎さんを招待し、『全て、あなたの恩恵のおかげです。』と、ずっと手を握りしめていたそうです。
日田重太郎さんが亡くなられた時、郷里淡路島で行われた葬儀は出光興産の『社葬』として出光佐三自ら参席し、恩人日田重太郎さんを見送ったのでした。
その後、出光佐三さんは1981年3月7日、この世を去りました。
95歳でした。
葬儀の時、出光佐三さんの側近の石田正寛さんは、『この人は、ただの一度も金を儲けろ。とは言わなかった。40年の間、一度も。』と涙したそうです。
まとめ
出光興産創立者、出光佐三さんの人生を簡単に紹介させて頂きましたが、小説や映画さながらの人生を生きてきたのが、スゴイ!とびっくりしますよね。
そりゃ、小説にもなるわ!って話です。。。
映画では岡田准一さんが、青年時代~90歳までの出光佐三さんを1人で演じています。
山崎貴監督からも評価の高い演技だそうなので、映画も観る価値あると思いますね!
2016年12月10日公開の『海賊とよばれた男』、楽しみです!
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