小説【海賊とよばれた男】下巻のあらすじ(ネタバレ)!
百田尚樹さんの小説、『海賊とよばれた男』の上巻と下巻に分けてあらすじを紹介しています!
映画を観に行かれる方、観に行かれない方も、小説のあらすじ(ネタバレ)が知りたく無い方は、ご遠慮くださいね。
ちなみに上巻のあらすじ(ネタバレ)はこちらです ↓
小説のあらすじと映画とは、また違った部分がたくさんあると思いますので、映画も楽しみですね~!
では、『海賊とよばれた男』下巻のあらすじ(ネタバレ)です!
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小説【海賊とよばれた男】下巻のあらすじ(ネタバレ)!
画像引用元:http://news.kodansha.co.jp/2374
1945年8月15日に日本が敗戦して、あれから2年が過ぎました。
結局、この2年間は底引網業、印刷業、慣れないラジオ修理の業務と様々な事業に乗り出しましたが、そのほとんどが失敗に終わっていました。
社運を懸けたタンク底で廃油を浚う仕事でも巨額の赤字を出したのです。
しかし、国岡鐡造は赤字になった事より、この2年間で百人余りの店員が国岡商店の将来性に見切りをつけ、辞めてしまった事の方が辛かったのです。
そんな中、ついに石油の自由化が目前に迫ってきました。
国岡鐡造の念願がついに実現しようとするのですが、その思いも、またもや足止めを食う事になったのです。
その理由は、石油の元売り会社の条件の中で、『輸入基地施設を有するもの』といった項目があります。
それは、石油タンクを所有するという事なのです。
今までも、大量の石油を保管するタンクを所持する為に手を尽くしてきましたが、その資金を調達出来ずにいました。
今回の期限を考えると、後3ヶ月の間に石油タンクを用意しなければならないのです。
国岡鐡造は絶望感漂う中、新聞である記事を見つけます。
それは、旧三井物産の貯油施設が売却されるというニュースでした。
公開競売にかけられる可能性もあるとの記事を見て、国岡鐡造は『これだ!』と思い、この入札に加わる事を決めたのでした。
しかし、資金は必要です。
絶対に競り落とすには、四千万円は必要です。
今まで融資については、いくつもの銀行から断られていました。
国岡鐡造は、東京銀行に半ば諦め気味で出向いたのでした。
東京日本橋にある本店に国岡鐡造は1人で出向き、過去に何度か会った事のある大江清常務に会う事となりました。
大江清常務は気難しく、いつも不機嫌な顔をしているので、国岡鐡造にとっては苦手とする人物でした。
融資希望金額四千万円を告げると、大江清常務はあっさり、『いいですよ。』と返事をしました。
国岡鐡造は思いもかけない返事に『本当ですか!』と大きな声で問い返す程、びっくりしたのでした。
実は、大江清常務は国岡商店の店員達が、必死でタンク底から油を汲み出す姿を見て、日本は必ず立ち直れると確信した1人だったのです。
だから融資の話があれば、どれだけの額であろうと援助すると決めていたのでした。
こうして入札も見事に競り落とし、タンクを入手した国岡商店は、石油元売り会社の9社の中に入る事が出来ました。
元売り会社となった国岡商店は、全国的に石油販売会社としての展開を始めました。
それまで、各地で細々と『国岡ラジオ』の看板を掲げていましたが、それを下ろして『国岡石油』の看板を掲げたのでした。
過去に石油販売をしていた国岡商店の店員の力は全く衰えてはおらず、見事に石油を売りまくっていました。
すると、外油は日本の石油会社との統合を急ぎ始めたのです。
国岡商店の攻勢を食い止め様と他の石油会社もスクラムを組んできました。
そして原油の輸入枠を広げ、石油製品の輸入量を減らす等といった事を始めました。
更に外油は、輸入基地の共同使用の即時撤廃も主張してきました。
もしここで、輸入基地の共同使用が禁止されたなら、国岡商店の勢いは止まってしまいます。
他社から石油を分けてもらって売るだけの単なる小売業者に再び落ちてしまうのです。
国岡鐡造は、大きなため息をついたのでした。
進水
国岡鐡造はこれから必要な物として、まずタンカーを持つべきだと考えました。
そして、会議でそれを聞いた重役達は、反対しました。
しかし、国岡鐡造は、『商人は5年後、10年後を見据えなければならない。タンカーは必ず必要となる。』と言う言葉に、重役達は黙らざるを得ませんでした。
それからタンカーを入手する為にいくつかの障害がありましたが、運輸省で適格船主決定の会議が行われた際に、運輸大臣の山崎猛の『国岡商店に決めよう。外国では石油会社がタンカーを持っている。日本でそう出来ないという法は無い。』という言葉により、国岡商店はタンカー建造の権利を得る事が出来ました。
国岡商店の、一万八七七四トンという日本最大、世界でも有数の巨大タンカーの建造発表に世間は驚きました。
そして、昭和26年9月8日、『日本国との平和条約が締結した。』という発表により、日本国民が待ち望んだ独立がようやく実現しました。
国岡鐡造はむせび泣き、この日をもって戦争が終わったと思えたのでした。
6年前、『愚痴を止めよ。愚痴は泣き言である。』『直ちに建設にかかれ。』と自ら放った言葉を国岡鐡造は思い返しました。
これからが本当の勝負だと自分自身に言い聞かせるのでした。
そして、兵庫県相生市の播磨造船所でタンカーの進水式が行われました。
そこには美しい文字で『日章丸』と書かれていました。
新田辰男
日章丸が完成したのは、昭和26年12月22日です。
正確には、『日章丸二世』となるのです。
10年前に造られた日章丸は、アメリカ軍の艦載機の空爆によって沈められていたのです。
この日章丸二世は平和な時代に、そして日本の繁栄の為に生まれてきた。と、国岡鐡造は社員に告げました。
その日章丸の操舵室の中から出てきたのが、新田辰男でした。
新田辰男は明治25年生まれ、年齢は59歳。
16歳の頃から40年以上も船に乗ってきたベテラン船長です。
国岡鐡造は新田辰男に『私はこの船で世界を相手に戦いたいと思っている。日章丸をよろしく頼む。』と言い、2人は握手したのでした。
2日後、日章丸はアメリカのサンフランシスコへ旅立ちました。
重油と軽油を輸入しに行くのです。
サンフランシスコに到着した日、船上でレセプションパーティーが行われました。
その時に世界最大の銀行、バンク・オブ・アメリカの極東担当部長のハリー・クィネルが、国岡鐡造の弟、国岡正明に『これほど大きなタンカーを作ったのが敗戦した日本人だとはすごい事だ。』と言ってきました。
正明は、『兄の鐡造は、一代で会社を築いた男で戦争で資産を全て失ったが立ち直り、世界一のタンカーを持つまでになりました。』と言いました。
驚いたクィネルは『ボスの名は?』と聞き、『66歳です。』と答える正明に、『マーベラス!(とても驚いた)』と言ったのでした。
イラン石油
当時イランの石油量は、世界一と言われていました。
しかし油田は1900年代初めにイギリスが開発したもので、長年に渡りイギリスの国策会社アングロ・イラニアンのものでした。
イランは、有り余る石油がありながらも、経済的に困窮していました。
それもそのはず、イギリスはイランの地下から吸い上げた石油による利益は、初期投資額の400倍で、イランの国土の三分の一に及ぶ広大な土地にも関わらず、イラン国王に渡した額はわずか八千ポンドと、事業純益の十六%だけなのです。
当時国王は、石油の価値が解らなかった時代かもしれませんが、イランのその後の苦難の歴史はこの時に作られたのでした。
しかし、1950年代に入ると、イラン国民の間で『イランの油田を国有化する』といった運動が起こります。
イギリスは、イランの石油を失えば世界の覇権を失う事になり兼ね無いと考え、イランに対し経済封鎖する事にしたのです。
世界各国にイランから石油を買う者に対して必要と思われるあらゆる措置を取る。といった警告を出しました。
脅しだろうと思っていた者にとっては、その答えが、ある出来事によってイギリスが本気だという事が解るのでした。
それは、イランの原油を積んだイタリアの『ローズマリー号』がイギリスの軍艦に捕まえられ、イギリス直轄植民地のアデンに強制入港させられ、差し押さえられるといった出来事が起こりました。
しかし、それに真っ向から立ち向かう計画を立てたのが、国岡鐡造でした。
アメリカのポール・コフマンは、イランの石油購入はビッグビジネスになると考えており、それを国岡鐡造と手を組んでイランと取引してみないか。という話を持ちかけてきました。
コフマンは、アメリカ政府がイギリスを説得して、近く共同声明を申し入れると言いました。
もしアメリカが、イランの石油国有化をイギリスに認めさせる事に成功すれば、世界中の石油業者がイランに殺到するはずなので、そうならない為にも声明を発表しなければならないのです。
その内容は
一、アメリカ・イギリス両政府は、イランの石油国有化を認める。
ニ、イランとアングロ・イラニアンの紛争解決に関しては、国際司法裁判所に委ねる。
三、イラン石油の購入に関しては、アングロ・イラニアンにイランと交渉する優先権を与える。
四、アメリカは、イランが海外に石油を販売出来るようになるまでの援助資金として、一千万ドルをイランに贈与する。
といった内容でした。
それを聞いた国岡鐡造はイランの石油を買う決意をしました。
国岡商店の役員達は、『しばらく待ちましょう。今行動して、もしイギリスに軍に差し押さえられたりでもしたら・・・』と言って反対しましたが、むろん国岡鐡造は『リスクの無い商売は無い』と言って実行する事を伝えました。
しかし、イランとの交渉にも時間がかかる事になりました。
幾度となく振り出しに戻る話を続け、やっと交渉成立となりました。
そして、イランへ向かうタンカーは『日章丸』を出す事になりました。
もし、日章丸をイギリスに奪われる事があれば、国商店は倒産する事になります。
でも国岡鐡造は、日本人が信義を果たす国民である事をイランの国民は知るだろうし、必ず両国の今後の友好関係にとって大きな力となる。と考えました。
それだけでも、日章丸を派遣する意味があると思ったのです。
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サムライ達
国岡鐡造は、新田辰男に『日章丸をイランへ運んでくれ』と言いました。
新田船長は、『行きましょう。』と、大根でも買いに行くかのごとく、あっさりと返事をしたのでした。
昭和28年3月23日午前9時過ぎ、イランに向かう為、日章丸は神戸港を後にしました。
そして、日章丸は東シナ海をひたすら南に向かっていました。
船は3日目の夜、台湾を過ぎフィリピンの北にあるバリンタン海峡を抜けました。
そうして1週間目にはマレー半島に到着、そこからイランのアバダンへ向かうのでした。
ホルムズ海峡を抜け、予定より半日早く日章丸は、シャット・アル・アラブ河口に着きました。
そして、アバダン製油所が見えたのです。
日章丸がアバダンに着いたというニュースは世界中を駆け巡りました。
完全なる隠密行動を取っていただけに、石油業者や関係者達の衝撃は大きいものでした。
国岡鐡造は、銀座にある本社『国岡館』で記者会見を開きました。
記者達は、矢の様に質問を浴びせかけましたが、国岡鐡造は『国岡商店がイランの石油購入を計画したのは自由競争の石油市場を作りたいと思ったからです。なお、イランの石油はイランのものであり、イギリスの主張は通らないと考えております。』とだけ言いました。
そんな中、アバダン港に着いた新田達は、イラン国営石油会社の一行から熱烈な歓迎を受けていました。
全員が喜びと感動に包まれていたのです。
そうして、昭和28年4月15日午前6時過ぎ、日章丸はアバダン港を出航しました。
16日の夜、ペルシャ湾を抜けた時にはイギリスの海軍らしき船影はレーダーには写りませんでした。
マラッカ海峡を通らず、スマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を抜けジャワ海に入り、スマトラ島とボルネオ島の間のガスパル海峡を抜けていきました。
日章丸は、アバダン港を出航してから15日後には南シナ海に入りました。
そして、昭和28年5月9日午前11過ぎ大勢の新聞記者が集まる中、川崎港に到着しました。
『諸君ありがとう!』『君らの偉業は、日章丸の名前と共に、この先何十年経とうと、決して忘れられる事はないであろう。』
国岡鐡造はじめ、乗組員達や船長の新田も涙していました。
それから東京で、この件についての裁判が行われました。
そして全ての口頭弁論が終わり、ついに判決を言い渡される日が来たのです。
判決は、『仮処分申請を却下する』といった判決でした。
その瞬間、傍聴席から拍手が起こり、国岡商店の社員達は抱きあって喜んだのでした。
復活
それから2年後、国岡商店は完全に甦りました。
やはり、国岡商店を救ったのは日章丸でした。
それから国岡鐡造は、製油所の建設を急がねばならないと躍起になっていました。
そこから国岡商店の従業員達は、凄まじい勢いで、製油所の完成に力を注ぎました。
そして、昭和32年3月10日、ついに世界最大級の製油所が完成しました。
2ヶ月後の竣工式には46年前、国岡鐡造に六千円という大金を渡した日田重太郎もいました。
『素晴らしい式やったなぁ』と言う、日田重太郎に、『全て日田さんのおかげです。あの日六千円というお金を援助してくださなかったら今の自分はありません。』と、国岡鐡造は感謝の気持ちを伝えました。
『いや、礼を言うのはわしのほうや。わしも素晴らしい夢を見る事が出来た。わしのわずかな金が世界を驚かす様な大きな会社になったんや。こんな夢を見れる老人は他にはおらん。』と言う日田重太郎に、国岡鐡造は、ただもう泣くだけでした。
国岡商店は、ついに悲願であった製油所を手に入れる事が出来ました。
そして、自社で石油製品を生産する力を持ったのでした。
別れ
国岡商店五十周年の式典の直後、日田重太郎の病が重いという一報が届きました。
病名はガンで、余命1ヶ月との事。
国岡鐡造は日田重太郎の元を訪れ、日田重太郎の寝顔を見ながら恩の大きさを今更ながら感じました。
『国岡となら乞食(こじき)をしてもええ。』そう言い、『諦めるな。』と何度も励まされた事を思い返し、こんな素晴らしい人間に出会えた事に感謝の気持ちでいっぱいになったのでした。
目を開けた日田重太郎に国岡鐡造は、『日田さん、何がお望みですか。なんでもおっしゃってください。』そう言うと、日田重太郎は、『淡路に帰りたい。』と、か細い声で言いました。
それが最後に交わした言葉となりました。
昭和37年2月16日、国岡鐡造は、日田重太郎の葬儀を国岡商店の社葬として執りました。
『あなたは最後に淡路に帰りたいとおっしゃいました。今、そのお宅へ帰られました。安らかにお眠りください。』と言った国岡鐡造の言葉に会場は水を打った様に静まり返りました。
日田重太郎が亡くなってから、国岡鐡造は何かが変わった様でした。
闘争心の様なものが消え、高僧の様な雰囲気を漂わせはじめたのでした。
昭和41年、国岡商店の本社を日比谷の国際ビルに移しました。
新社屋に移した翌日、国岡鐡造は弟で副社長の正明と数人の重役を店主室に呼びました。
弟の正明に『お前、社長をやれ。これは社長命令だ。』と言い、自分は81歳にもなったのでそろそろ隠居になるつもりだと言いました。
昭和41年10月1日、国岡鐡造は、正式に国岡商店の社長を退き、会長となりました。
社長は国岡正明、副社長は東雲忠司といった新人事となりました。
それから国岡鐡造に、小川達雄という見知らぬ人から手紙が届きました。
その差出人は、かつての前妻『ユキ』の大甥に当たる人でした。
手紙によると、ユキは1年前に九州の老人ホームで息を引き取ったとの事でした。
国岡鐡造と離縁したその後、ユキはどこにも嫁がなかったのです。
遺品の整理で初めて小川達雄は、自分の大伯母があの国岡鐡造の最初の妻である事を知ったと言います。
『大伯母は、ずっと貴方様の事を慕い続けていたのだと存じます。』と書かれた文に、国岡鐡造は涙をこぼしました。
いつ倒産するか解らない状況の国岡商店を明るい笑顔で勇気づけてくれたユキを思うと、とんでもない過ちを犯したのではないかという気持ちにさえなりました。
終章
昭和51年、国岡鐡造は91歳になっていました。
ある日、国岡鐡造は古美術商を訪れました。
そこにあったのは、かつて手放した『双鶴画賛』という掛け軸でした。
ユキが気に入っていたもので、戦後の苦しい時に多くを手放した古美術品の1つで、他のものは国岡商店が大きくなってから買い戻す事に成功したのですが、この『双鶴画賛』は今日まで見る事がありませんでした。
その掛け軸に描かれている二羽の鶴は、つがいであろうと思われ、この絵の魅力に今気づいたのでした。
この絵が何故、今自分のもとへ戻ってきたか、解った様な気がしたのでした。
その翌月、国岡鐡造は激しい腹痛に見舞われ、病院で検査をすると、腸閉塞という診断でした。
少し落ち着きましたが、次の日容態が急変し、懸命に手を尽くしましたが、回復させる事は出来ませんでした。
昭和56年3月7日、国岡鐡造は95年の生涯を終えました。
臨終の床の間には『双鶴画賛』が掛かっていました。
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